試作に消えたシューティングブレーク プジョー504 ブレークリビエラ カブリオレで再現 前編

公開 : 2022.10.15 07:05

ピニンファリーナのシューティングブレークを、マニアが見事に再現。2ドアの504とともに英国編集部がご紹介します。

ピニンファリーナによる優雅なボディ

イタリアのデザイン企業、カロッツエリアのピニンファリーナ社が迎えた往年の黄金期では、プジョーとの結びつきが商業的に重要な意味を持っていた。1955年の中型モデル、403を皮切りに、フランス人に身近なクルマへ洗練されたスタイリングが施された。

プジョー504 サルーンが発表されたのは1968年。その仕上がりが評価され、1969年の欧州カー・オブ・ザ・イヤーを受賞している。1982年までに合計280万台を生産し、先代の404が築き上げた成功を継承した。

シルバーのプジョー504 クーペと、グリーンメタリックのプジョー504 カブリオレ、ブルーのプジョー504 ブレークリビエラ・レプリカ
シルバーのプジョー504 クーペと、グリーンメタリックのプジョー504 カブリオレ、ブルーのプジョー504 ブレークリビエラ・レプリカ

スタイリングだけでなく、ボディ製造もピニンファリーナ社が担当することで、美しい504 クーペとカブリオレも生み出された。フランスの優れた設計を、イタリアの優雅なボディが包み込んだ。

504 サルーンのスタイリングを手掛けたのは、ピニンファリーナ社に在籍していた巨匠、アルド・ブロヴァローネ氏。一方のクーペとカブリオレは、1920年代から創業者のバッティスタ・ファリーナ氏と仕事をしていた、フランコ・マルティネンゴ氏だった。

美しい2種類の2ドアモデルは、マルティネンゴのキャリアの最終章として素晴らしい仕上がりにあった。4灯の長方形のヘッドライトが、大きく口を開いたフロントノーズに収まっていた。滑らかな曲面がボディサイドを覆い、ふくよかなリアへ展開していた。

1.8Lと2.0Lの4気筒ほかV6 PRVユニットも

控えめで情緒豊かなスタイリングを目の当たりにし、心が動かされたプジョーの経営陣は量産化を決定。13年間に3万5000台がオーナーのもとへ届けられた。販売台数でいえば、フィアット124アルファ・ロメオ・スパイダーの方が多かったけれど。

ちなみに、当時のピニンファリーナ社は好調の波に乗っていた。フェラーリ365 GTB/4 デイトナやフェラーリ・ディーノ206 GTなどの傑作も、同時期に生み出している。

プジョー504 クーペ(1976年/欧州仕様)
プジョー504 クーペ(1976年/欧州仕様)

504 クーペとカブリオレの発表は1969年のジュネーブ・モーターショー。ホイールベースはサルーンより7インチ(約178mm)短く、2+2のパッケージングを得ていた。504では最も高額な、燃料インジェクション版サルーンの約半額という価格設定だった。

ピニンファリーナ社の工場で製造されたボディは、フィアットランチアアルファ・ロメオなどのからの受注モデルと同様に塗装され、ボディトリムもイタリアで装着。アルプス山脈を越えてフランスへ届けられた。

プジョーが設計したサスペンションは、フロントがストラット式で、リアがセミトレーリングアーム式。ドライブトレインはリアタイヤへ効率的に駆動力を伝達する、トルクチューブが採用された。

当初の1.8L 4気筒エンジンへ燃料を供給したのは、クーゲルフィッシャー式の機械式インジェクション。1970年には2.0Lへ拡大され、1974年にはプジョーとルノーボルボの3社で共同開発された、V型6気筒のPRV「ドゥヴラン」エンジンへ置換されている。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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