欠点を上回る魅力 アームストロング・シドレー・サファイア236 ライレー・パスファインダー 前編

公開 : 2022.11.19 07:05

1950年代にブランド末期を彩った2台。自由でおおらかだった時代の上級サルーンを、英国編集部がご紹介します。

自由でおおらかだった1950年代のクルマ

現代のクルマは、空気力学や環境規制などを理由に均質化の傾向が強い。1950年代は、もっと自由でおおらかだった。今以上に魅力的だと捉える読者もいらっしゃると思う。

英国では道を走るクルマは少なく、交通ルールも寛大だった。クルマの運転自体が、特別なことといえた。技術革新は次代の幕開けを告げるような、ワクワクするものだった。われわれの自制を促すものではなく。

ブルーのライレー・パスファインダーと、ホワイトのアームストロング・シドレー・サファイア236
ブルーのライレー・パスファインダーと、ホワイトのアームストロング・シドレー・サファイア236

人生もシンプルだったと思う。ファストフードやコンビニエンスストアは存在せず、電気自動車は子供のおもちゃだった。国の隅々まで敷設が進む高速道路を走ってみたいと、ドライバーの気持ちをはやらせた。

政府による健康保険制度が新設され、伝染病に対する不安は和らいだ。第二次大戦から10年が経過し、配給制度もなくなった。

オースチンにモーリス、フォード、ルーツといったメーカーの自家用車が、英国の家族を乗せて走り始めていた。世界有数の自動車輸出国として、英国人であることを誇らしく感じさせながら。

ライレー・パスファインダーやアームストロング・シドレー・サファイア236に憧れているような人は、緊縮財政から開放されつつあった。ブルーカラーの年収の3倍近い価格ではあったが、成長を続ける経済と、増加する中産階級を象徴するモデルといえた。

とはいえ、既に70年前のサルーンだ。その体験を現代に良く捉えるか悪く捉えるかは、何に魅力を感じるかによって異なるだろう。

ウーズレー6/90とボディパネルを共有

終戦直後の上級サルーンとして、1945年に登場したのがライレーRMシリーズや、アームストロング・シドレー・ランカスターといったモデルだった。当時の市場は拡大傾向にあった。

その反面、1200ポンドの価格で販売されたライレー・パスファインダーや、1600ポンドのアームストロング・シドレー・サファイア236は伸び悩んだ。選択肢が増え、ローバーP4 90が1100ポンドで購入できた1950年代に、あえて選ぶ人は限られた。

ライレー・パスファインダー(1953〜1957年/英国仕様)
ライレー・パスファインダー(1953〜1957年/英国仕様)

最高速度160km/h以上がうたわれた、洗練されたジャガー2.4が1955年に登場。1340ポンドという価格が、2台のとどめを刺したといってもいい。

1954年から1957年にかけて生産されたパスファインダーは、5152台に留まった。BMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)傘下となり、ウーズレー6/90とボディパネルを共有していたため、ダメージは限定的といえたが。

ただしパスファインダーと6/90には、現代の兄弟モデルほど密接な関連性はなかった。前者はロンドンの西のアビンドン、後者はその北にあるカウリーと、生産工場は別。エンジンやインテリアなども別物だった。

6/90が搭載したエンジンは、2.6Lの直列6気筒。ホイールは15インチと1インチ小さい反面、全高は2インチ(約51mm)高く、サイドシルやフェンダーの造形も異なっていた。パスファインダーより、ひと回り大きく見えた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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