運命を分けたスポーツカー ダットサン240Z(フェアレディZ) トライアンフTR6 1969年の2台 前編

公開 : 2022.12.04 07:05

同年に北米市場でのプレゼンス拡大を狙って投入された日英のスポーツカー。好対照な2台を、英国編集部が乗り比べました。

ほぼ全メーカーが参入を試みた北米市場

アメリカで売れるクルマを開発することは、海外メーカーにとって簡単なことではない。20世紀における最大規模の市場へ、ほぼすべての自動車メーカーが参入を試みてきた。だが、プジョールノースズキなどのように、撤退を余儀なくされた例は少なくない。

フィアットアルファ・ロメオは、近年になって再び挑戦することを決めた。アメリカ人の共感を呼びつつ、現地のモデルとは異なる魅力を提供するという、微妙なバランス感覚が求められる。

レッドのダットサン240Zと、グリーンのトライアンフTR6
レッドのダットサン240Zと、グリーンのトライアンフTR6

日本のダットサン、現在の日産は、1960年代にスポーツカーで北米市場の足がかりを築こうとした。同時期には、英国のトライアンフもさらなる成功に向けて挑んでいた。

輸出するか死するか、という境地に1度は立たされていたトライアンフ。しかし1950年代以降は、アメリカでのブリティッシュ・スポーツカー・ブームの中心的な存在になっていた。排気量の大きい、TRシリーズが彼の地のドライバーの気持ちを捉えた。

特に1967年にリリースされ、英国ではTR5として知られる、2.5L直列6気筒エンジンを搭載したTR250が人気を集めた。生産終了となった、オースチンヒーレー3000への需要も満たした。そして1969年にはブランド最大のヒット作、TR6が生み出される。

TR6のエンジンは、TR250のキャリーオーバー。大きいことは良いことだ、というアメリカ的な嗜好に不足ない排気量が備わっていた。特に難しいチューニングを与えずとも、充分なパワーを得ることができた。

同時期に投入されたTR6と240Z

カリフォルニア州の排気ガス規制をクリアできないという理由で、欧州市場で提供されていた燃料インジェクションは当初見送られた。アメリカのディーラーは、メンテナンスが難しい新技術に対して否定的だった。

近所のディーラーが自宅から数100kmも離れた場所にあるとしたら、キャブレターの方が安心なことは間違いない。単に保守的だったわけではない。

レッドのダットサン240Zと、グリーンのトライアンフTR6
レッドのダットサン240Zと、グリーンのトライアンフTR6

トライアンフは、TR4の時代から2種類のリア・サスペンションを設定していた。欧州では独立懸架式が選ばれたが、北米ではTR6でもシンプルなリーフスプリングにセミトレーリング アームという組み合わせが継投となった。

スタイリングは、クラシカルなTR5から一皮むけ、1970年代感を漂わせていた。しかし、ドア付近はジョヴァンニ・ミケロッティ氏が手掛けたTR4と基本的には不変。前後の処理でイメージを一新しており、フェイスリフトの成功例といえる。

そんなトライアンフを横目に、日本の自動車メーカーも北米市場へ挑んでいた。1969年のS30型240Z(フェアレディZ)で。

10年ほど前には、オースチンの技術から派生したダットサン110型系を由来とする、スポーツ1000をアメリカで販売。1960年にフェアレディ1200へ進化するが、合計で1464台の販売に留まった。

1962年にはS310型のフェアレディ1500 ロードスターを投入。MGBやTR4とは違うスポーツカーとして、一定の支持を集めることに成功した。そして1967年の510 ブルーバードで得た認知度を高める存在として登場したのが、S30型の240Zだ。

記事に関わった人々

  • 執筆

    チャーリー・カルダーウッド

    Charlie Calderwood

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ウィル・ウイリアムズ

    Will Williams

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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