魅了するツートーン・ボディ ブガッティ・タイプ57 アタランテ 公道用モデルの理想像 前編

公開 : 2023.02.19 07:05

戦前、フェラーリに匹敵する訴求力や神秘性を持っていたというブガッティ。妖艶なタイプ57 アタランテを、英国編集部がご紹介します。

芸術品に劣らない美しさを湛えるブガッティ

戦前のブガッティは、芸術作品に劣らない美しさを誇っただけでなく、技術水準も相当に高かった。例えばタイプ35は、1926年から1932年にかけて1000を超えるレースで勝利している。

時には複雑な解決策が選ばれたこともあったが、機能美がないがしろにされることはなかった。信頼性は高く、充分な能力を発揮した。

ブガッティ・タイプ57 アタランテ(1936年/欧州仕様)
ブガッティ・タイプ57 アタランテ(1936年/欧州仕様)

一見何の変哲もない部品でさえ、フランス中西部、モルスアイムに創業者のエットーレ・ブガッティ氏が構えた壮観な工場で、丁寧に作られた。新技術を積極的に採用しつつも、ディティールの仕上げには頑固なまでに拘られた。

モノづくりの才能に長けたエットーレは、イタリア・ミラノの出身。祖父のカルロは家具デザイナーとして名を馳せ、弟のレンブラントは著名な彫刻家だった。現役だった30年間、完璧な仕上がりを追求した数10車種のモデルに、その血筋は表れている。

ところが1939年、最愛の息子、ジャン・ブガッティ氏がル・マン・マシンのテスト中に事故で命を落としてしまう。エットーレは深い悲しみへ沈み、第二次大戦が追い打ちをかけ、華やかだった1つの時代は終りを迎えた。

多忙な父にかわり、1930年代にはジャンが自動車製造のビジネスを実質的に引き継いでいた。クルマのデザインに関しても、受け継いだ才能を発揮しつつあった。それが端的に示された1台が、今回ご紹介するタイプ57だろう。

当時のスポーツカーとしての最高峰

製造期間は1933年から1940年で、公道用ブガッティの理想像といえた。タイプ44以来となる成功作であり、多様な仕様で700台以上が世に出ている。

スーパーチャージャーを搭載したタイプ57Cや、高さが抑えられたシャシーのタイプ57Sとタイプ57SCは、当時のスポーツカーの最高峰にあった。75SCでは最高出力200ps、最高速度193km/hを実現していた。

ブガッティ・タイプ57 アタランテ(1936年/欧州仕様)
ブガッティ・タイプ57 アタランテ(1936年/欧州仕様)

エンジンは同社自慢の直列8気筒ダブル・オーバーヘッド・カム。排気量3257ccのオールアルミ製で滑らかに回転し、ウェットサンプ化されていた。カムシャフトはギアドライブで、新開発のクランクも組まれた。

4速マニュアルのトランスミッションは、エンジンと一体。1速を除き、変速時にギアの回転を調整するシンクロメッシュを備え、乾式クラッチを介してパワーを伝えた。

優れた重量配分などを理由に、ブガッティは改良を加えながらリジットアクスルに拘った。そのアクスルは、フロントが半楕円、リアが1/4楕円のリーフスプリング・サスペンションで支持。ブレーキは、ガーリング社による油圧式が採用された。

グリスポイントは21か所以上といわれ、走行800km毎のメンテナンスが求められた。ジャンはモルスアイムからパリまでの435kmを平均123.9km/hで走行し、シャシーの能力を証明している。

3つのボディスタイルの名称は、アルプス峠にちなんで選ばれている。ヴァントゥー・コーチとステルヴィオ・カブリオレは、フランスのコーチビルダー、ガングロフ社が製作。ガリビエ・サルーンは社内の職人が成形した。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    オルガン・コーダル

    Olgun Kordal

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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