思わず本能的になる ジャガーXK120 戦後のスポーツカーを牽引 1948年のゲームチェンジャー(3)

公開 : 2023.05.06 07:05

戦後の開放的な雰囲気のなか、ゲームチェンジャーといえる傑作モデルが誕生した1948年。その最たる6台を、英国編集部がご紹介します。

MkVIIの裏で進んでいたスポーツカー

ジャガーを創業したウィリアム・ライオンズ氏の野心は高かった。同時に、現実的にビジネスを進めるうえでの優先順位にも敏感だった。

1945年の最優先事項は、より高価なライバルに立ち向かえる、最高時速160km/h超の高級サルーンを提供すること。ウィリアム・ヘインズ氏やウォルター・ハッサン氏といった有能な技術者は、達成できるという自信を抱いていたはずだ。

ジャガーXK120(1948〜1954年/英国仕様)
ジャガーXK120(1948〜1954年/英国仕様)

ロンドンの南東に構えた工場内には、新しいダブルオーバーヘッドカム(DOHC)直列6気筒エンジンとモノコック構造ボディの、図面が溢れていたことだろう。後にブランドを象徴するベストセラー・サルーンとなる、MkVIIを誕生させるため。

一方で、戦後初となるモーターショーで確実な注目を集めるべく、別の計画も密かに進行していた。MkVのシャシーを短縮し、新しい6気筒エンジンをフロントに搭載した、アルミニウム製ボディの斬新なスポーツカーだ。

サスペンションは、フロントがトーションバー、リアにリーフスプリングを採用した、ウイッシュボーン式。ブレーキには、ロッキード社製のドラムが前後に組まれた。

有能な技術者、フレッド・ガードナー氏の尽力により、数週間でコンセプトは形になった。「スーパースポーツ」と呼ばれたそのクルマは、1948年10月のロンドン・モーターショーで発表される。ライオンズは、その巨大な影響を予想していなかったようだ。

最初期のアルミボディの提供数は200台

直後から多くの注文が寄せられたが、ジャガーの工場は需要に応える準備ができていなかった。XK120として量産化は決まっていたが、シャシーとボディが生産に適したスチール製へ変更され、実際に英国で納車が始まるまでに2年の時間を要した。

最高速度202km/hが主張されたロードスターには、1263ポンドという控えめな価格が設定された。しかし、当初のアルミボディの提供数は200台。充分な資金を持つだけでなく、幸運にも恵まれ、北米に住んでいることが入手できる理想的な条件だった。

ジャガーXK120(1948〜1954年/英国仕様)
ジャガーXK120(1948〜1954年/英国仕様)

スチール製ボディへ切り替わったXK120は、1954年までに1万1861台が生産されているが、それでも供給が充分とはいえなかった。特にデイブ・ナーシー氏が所有する、1951年式には羨望の眼差しが向けられたことだろう。

オースチンヒーレー3000やデイムラーSP250、ジャガーXKといった、クラシックカーを探していたのが1975年。クラシックカーの著書を多く手掛けるフィリップ・ポーター氏と出会い、ジャガーを選ぶべきだと諭されたんです」

当時24歳だったデイブは、それ以来、XK120の雰囲気から想起される通りのクラシックカー・ライフを過ごしてきた。モータースポーツ・イベントにも数多く参加している。

レストア前にも、1982年と1983年にフランスのル・マンへ長旅をしています。XK120へ主に乗るのは夏。冬でも、控えめですが乗りますよ。今まで、ルーフを使用したことはありません」。とデイブが笑顔で話す。

記事に関わった人々

  • 執筆

    アーロン・マッケイ

    Aaron McKay

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

1948年のゲームチェンジャー シトロエン2CV、フェラーリ166からポルシェ356までの前後関係

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