あまり「速くない」グループBマシン シトロエン・ビザ・トロフィー(1) NAの1219cc 4気筒は104ps

公開 : 2024.07.13 17:45

ラリーへ古くから参戦してきたシトロエン

高い自由度が故に、既存マシンへ手を加え、ブループBとして再公認を受けることは難しくなかった。多岐にラリーへ挑んでいた当時のシトロエンは、短時間に書類を整え認可を受けたようだ。

同社とラリーとの結びつきは古く、1959年にはラリー・モンテカルロをDS19で圧勝。1966年と1967年はDS21が好成績を収めた。1961年のリエージュ・ソフィア・リエージュ・マラソンラリーでも、過酷な内容で誇るべき勝利を納めている。

シトロエン・ビザ・トロフィー(1982年/欧州仕様)
シトロエン・ビザ・トロフィー(1982年/欧州仕様)

1968年には、英国ロンドンからオーストラリア・シドニーを目指したロンドン・シドニー・マラソンラリーにも参戦した。残り50kmというポイントで、ワークスマシンはBMCミニと衝突し、勝利を逃しているが。

ファクトリー・チームの態勢が整えられた1971年には、ラリー・モロッコでシトロエンSMが優勝を掴んだ。ところが経営難に陥り、当面の参戦休止が決まる。

その後、1980年にシトロエンはラリー復帰を決断。費用を抑えつつ若い世代の獲得を狙った時、モータースポーツでの活躍は当時の好適な手段になった。格上のカテゴリーへステップアップを目指す、若手ドライバーの取り込みも想定された。

マシンに選ばれたのは、小さなハッチバックのビザ。実際はワンメイク・イベント用に開発されたマシンだったが、今回ご紹介する1台は、世界ラリー選手権のステージを実際に戦っている。

徹底的な軽量化 1219cc 4気筒から104ps

ベースのビザに載っていたのは、フランス・ドゥヴラン工場で生産された1219cc直列4気筒エンジン。PSAグループ傘下にあったプジョー104や、ルノー14 TLと基本的には同じユニットだった。

ビザ・トロフィーでは、本格的なラリーカーとして徹底的に軽量化。ボンネットとドア、テールゲートは、グラスファイバー(FRP)製へ置換された。

シトロエン・ビザ・トロフィー(1982年/欧州仕様)
シトロエン・ビザ・トロフィー(1982年/欧州仕様)

ウインドウの殆どは軽量なアクリル製へ交換され、走行に不要な内装などはすべて撤去。生産を請け負ったのは、フランスに存在したコーチビルダー、ユーリエ社だ。

4気筒エンジンは、シトロエン・コンペティション部門によって2基のウェーバー・キャブレターが組まれ、チューニング。104psの最高出力が引き出された。

ロールケージや安全装備も与えられ、新進気鋭のドライバー、ジャン・ピエール・ニコラ氏やミシェル・ムートン氏にピッタリのホットハッチが完成。トロフィー・インターナショナル・ビザが、公式のシリーズ戦として1982年に設けられた。

そのワンメイクレースへの参戦に求められた金額は、約5200ポンド。欧州全域で101ものイベントが設定され、チームの予算や本拠地から、参戦イベントを選ぶことが可能だった。総合的な順位は、少々複雑なポイント計算で決められた。

この続きは、シトロエン・ビザ・トロフィー(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    リチャード・ヘーゼルタイン

    Richard Heseltine

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

シトロエン・ビザ・トロフィーの前後関係

前後関係をもっとみる

関連テーマ

おすすめ記事

 

人気記事