「濃厚」イタリアン マセラティ・キャラミ デ・トマソ・ロンシャン(1) 異なる個性の似た2台

公開 : 2024.11.09 17:45

ベースを共有しつつ、異なる個性を持つロンシャンとキャラミ 共有するボディパネルは殆どなし 自然な運転姿勢で長距離ドライブも快適 濃厚な独自性で誘惑する2台を英編集部が振り返る

モデナに独自ブランドを立ち上げたデ・トマソ

アレッサンドロ・デ・トマソ氏は、実業家の大富豪。アルゼンチン出身のレーシングドライバーで、集中力に欠くところはあったようだが、クルマは大好きだった。アメリカ人の富豪と結婚し、祖先の故郷だったイタリア・モデナに独自メーカーを立ち上げた。

デ・トマソ・アウトモビリ社の創業は1959年。1970年代にスーパーカーのパンテーラをフォードへ提案し、名声を獲得すると、経営難へ陥っていたマセラティを1975年に買収した。

ダーク・グリーンのデ・トマソ・ロンシャンと、ブラウン・グレーのマセラティ・キャラミ
ダーク・グリーンのデ・トマソ・ロンシャンと、ブラウン・グレーのマセラティ・キャラミ

それ以前、1968年にシトロエン傘下へ収まるまで、マセラティは直列6気筒やV型8気筒エンジンの洗練されたグランドツアラーを生産。モータースポーツでの歴史を武器に、イタリアン・ブランドとして独自の地位を築いていた。美しい容姿も強みの1つだった。

しかし新たな親会社のもと、ブレーキとステアリング系に油圧を用いたハイドロ・システムを導入。成功とはいえないモデルを成熟させる猶予もなく、ブランドは転売されたのだった。

アレッサンドロがマセラティへ立案した長期計画は、BMWに対するイタリア流の答えを1981年から展開するというもの。2ドアのクーペとコンバーチブル、4ドアのサルーンで構成される、ビトゥルボで。結果的に、ブランドの評価が上昇することはなかったが。

オイルショックが世界を襲い、燃費の悪いハンドビルドのグランドツアラーへ支持が集まる保証はなかった。意欲の低い労働者に、工場は悩まされていた。

ボディパネルで共有する部分は殆どない2台

それでも、アレッサンドロは成功する予感を抱いていた。C107型のメルセデス・ベンツSLCという傑作は、堅調に売れていた。ミドシップエンジンのマセラティ・ボーラやメラクとは異なる、エレガントな2+2モデルへ需要があると予想した。

フロントエンジンのクーペ、1969年に発売されたマセラティ・インディの新世代こそ、直近の成功の鍵だと判断。ベルトーネのスタイリングをまとうFRのカムシンは、戦略的な問題が不振を招いたと考えられた。

マセラティ・キャラミ(1976〜1983年/英国仕様)
マセラティ・キャラミ(1976〜1983年/英国仕様)

かくして、1976年のスイス・ジュネーブ・モーターショーで発表されたのが、今回振り返るマセラティ・キャラミ。インディの事実的な後継として、90日間で設計はまとめられたらしい。

可愛らしいモデル名は、南アフリカに存在するキャラミ・サーキットが由来。このコースで開催されたF1では、1967年にマセラティ・エンジンのマシンが優勝している。

ベースとなったのは、技術者のジャンパオロ・ダラーラ氏が設計した、デ・トマソ・ドーヴィルやロンシャン用のシャシー。リアアクスルは4本のダンパーが支え、ブレーキはインボードディスクで、ラック&ピニオン式のステアリングが採用された。

デ・トマソ・ロンシャンとキャラミは、確かに似ていた。だが実際は、ボディパネルで共有する部分は殆どなかった。イタリアでの価格も、マセラティ製のツインカムエンジンと豪奢な内装が加味され、ロンシャンより高く設定された。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

マセラティ・キャラミ デ・トマソ・ロンシャンの前後関係

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