無二のミケロッティ・コンバーチブル フェラーリ166/195S インター 2.3L V12へ置換 前編

公開 : 2023.08.06 07:05

納車後すぐに195 S用V型12気筒へ換装

1950年代に作られたフェラーリは、波乱万丈な生涯を歩んできた例が多い。興味深い歴史を、優雅なボディに秘めている。それでも、1台のみが作られたヴィニャーレ・ボディのコンバーチブルほど、紆余曲折を経てきた例は限られるはず。

初代オーナーは、1949年のミッレミリアへフェラーリ166 バルケッタで出場し34位で完走した、プライベート・レーサーのジョバンニ・ヴァッカリ氏。彼に関して残された情報は限定的だが、フェラーリを強く支持した1人ではあった。

フェラーリ166/195 インター・コンバーチブル(1951年/欧州仕様)
フェラーリ166/195 インター・コンバーチブル(1951年/欧州仕様)

1953年には、ピニンファリーナ・ボディの250 MMもオーダーしている。裕福なイタリア紳士だったようだが、豊かな財力を何から得ていたのかはわかっていない。

少なくとも、フェラーリが1950年7月に0051S番のシャシーを完成させ、トリノのヴィニャーレ社へ引き渡したことは記録にある。ヴァッカリが、クルマの代金として215万リラを支払ったことも。

1950年12月、ヴィニャーレ・ボディのフェラーリ166 インター・クーペが完成。MI-161860のナンバーで登録された。このデザインのボディは、約10台に与えられたと考えられている。

ところが、ヴァッカリは納車後すぐに166 インター・クーペをマラネロに返送。フェラーリ195 Sが積む、V型12気筒2341ccエンジンへ載せ替えるように頼んでいる。

この195 Sは、1950年のみに作られた短命なスポーツ・レーシングカー。1951年の195 インターではシングル・キャブレターになっていたが、Sではトリプル・キャブレターを積み、圧縮比が高く、最高出力は100psから170psへ上昇していた。

ルーフの切断以上のデザイン的な変更

さらに彼は、クーペボディをコンバーチブルへコンバージョンするため、エンジンが換装された166/195S インターをヴィニャーレ社へ搬送。職人たちは、ルーフを切断する以上のデザイン的な変更を施した。

フロントグリルの形状が改められ、ボンネットに開けられていたスリムなエアインテークは滑らかに埋められた。現在は残っていないが、フロントフェンダー後方には小さなエアアウトレットも並べられた。

フェラーリ166/195 インター・コンバーチブル(1951年/欧州仕様)
フェラーリ166/195 インター・コンバーチブル(1951年/欧州仕様)

1951年に、166/195S インター・コンバーチブルが完成。しばらくスイスで乗られ、1960年代にアメリカへ渡っている。

オーナーの変遷などは不明ながら、最終的にはテキサス州オースティンに流れ着いたようだ。帰還した空軍の兵士が購入し、自宅へ運んだ可能性が高い。

高校生の頃からAUTOCARの読者だったというデイビッド・スミス氏は、この166/195 インター・コンバーチブルにオースティンで出会っている。「高校生の頃、銀行の地下駐車場でグレーに塗られたフェラーリのカブリオレを発見したんですよ」

「鉄柵の向こう側に停められていて、もちろん保管されている理由は知りませんでした。高校を卒業した自分は、レイモンド・アッターさんが営むオースティンのディーラーへ就職。彼に、そのクルマの情報を伝えたんです」

「アッターさんはフェラーリをオークションで落札し、干し草を運ぶようなワゴンに載せて持ち帰ってきました。フェラーリは赤であるべきだと彼は考えていて、レストアを兼ねてボディは再塗装されました」

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ティム・スコット

    Tim Scott

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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